上方最大規模の
宿場町として発展した“日本橋”

古来より堺・和歌山へ通じる紀州街道の起点として、また住吉大社への参詣道として人やモノが行き交う日本橋は「老若男女雲霞の如き日本橋の賑わい」と称されるほど大変な賑わいを見せていました。

特に、江戸期においては紀州街道への旅籠が軒を並べる宿場町として今と変わらぬ目抜き通りの様相を呈していたと言われています。

当時の日本橋の賑わいの様子は各種文献に記され、江戸時代の旅のバイブルとしてベストセラーとなった十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも弥次さん喜多さんが投宿し上方見物をしたことが記されており、日本橋が江戸期において、上方観光の拠点として機能していたことを表しています。

しかし、宿場町として発展した日本橋も幕末から明治にかけての混乱期に治安の悪化などが進み、宿場町としての日本橋は次第に衰退していくこととなります。

写真:明治期の日本橋 
出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ

博覧会と市電開業で
大きく変貌する“日本橋”

宿場町として賑わった日本橋は明治期に入り、その近代化と商都大阪の発展に伴い大きな変貌を遂げることとなります。

特に、隣接する新世界で開催された「内国勧業博覧会」の開催と大阪市電の開業は日本橋に大きな影響を与えることとなりました。

「内国勧業博覧会」は明治36年に新世界一帯で開催された大阪の一大イベントで、博覧会の開催に合わせて新世界を中心に大規模な都市整備が行われ、日本橋エリアも大きく変わることとなりました。

「内国勧業博覧会」は大成功を収めることとなり、跡地には東洋一の高さと言われた初代通天閣や我が国初のテーマパークともいえるルナパークなどが誕生し、大阪を代表する一大歓楽街として賑わうと同時に日本橋にも多くの来街者が訪れるようになりました。

一方、明治36年に花園橋~築港間に開業した大阪市電はその後路線網を拡大、堺筋にも紆余曲折の末、明治45年に路線が開通、御堂筋開通前の堺筋は当時の大阪のメインストリートとして大きく発展することとなります。

このように、隣接する新世界の賑わいと、市電開通により大阪のメインストリートとなった堺筋は日本橋を大阪でも有数の商業地として発展させることとなりました。

写真:初代通天閣 
出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ

「眺望閣」の登場と
大阪有数の商業エリアに発展する“日本橋”

新世界における「内国勧業博覧会」の開催と市電の開通は日本橋に大きな変化をもたらしましたが、一方で、日本橋には既に商業地としての発展の素地も形成されつつありました。

特に、明治21年に再開発により建てられた「眺望閣」は当時としては大変珍しい5階建て高さ31m大阪初の高層建築で、日本橋のランドマークとして親しまれ、場内では呉服や小間物、家具、文具、玩具などさまざまなものが売られ、さながら百貨店の様相を呈し多くの見物客で賑わいました。

周辺には「眺望閣」への見物客相手の露店も広がるようになり、この頃に今日の日本橋商店街のベースが作られたといわれています。

その後、日本橋には古着や古道具、骨董品といった類から日用品などを扱う店が集まるようになり、当時としては大変珍しかった舶来の品も数多く扱われていたことから「日本橋は掘り出し物の町」として大阪有数の商業エリアとして人気を集めることとなりました。

「眺望閣」は建設からわずか15年程で取り壊されましたが、周辺のエリアはシンボルであった5階建ての「眺望閣」から「五階古物市場」「五階昼店」などと呼ばれ、現在においても「五階百貨店」として当地でその名残を残しています。

写真:眺望閣 
出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ

写真:市電と五階百貨店
出典:浪速区史 /でんきのまち大阪日本橋物語より

写真:現在の五階百貨店界隈

松坂屋の進出と
神田と並ぶ古書店街に発展する
“日本橋”

「掘り出し物の町」として庶民に人気を集める中、大正12年には日本橋に松坂屋が進出、当初は木造3階建ての小さな店舗でしたが大阪南部唯一の百貨店として庶民的な雰囲気で親しまれていました。

松坂屋はその後、昭和3年より大規模店舗として新たに建設され、昭和41年に天満橋に移転するまで日本橋の地で営業を続けました。

かつての松坂屋は、現在も高島屋東別館として健在で、戦前のモダニズムを伝える美しい建築美を今も見ることが出来ます。

一方、松坂屋が進出してきた当時の日本橋はというと、何と東京の神田と並ぶ古書店街としていつのまにか名を馳せるようになっていました。

元々は古物を扱う店が多くあったことから、次第に古書を扱う店が進出して来たと思われ、特に関東大震災後は東京方面からの需要が高くなり、日本橋古書店街は大きく発展することとなりました。

日本橋古書店街は昭和3年頃には40数件を数え最盛期の昭和10年代には実に60件以上が軒を並べる古書店黄金期を迎えました。

かつては神田と並ぶ古書店街、今は秋葉原と並ぶオタク街として、共に日本橋が流行文化の発信地として賑わっていたことは実に興味深いところです。

写真:旧松坂屋大阪店(現高島屋東別館)

写真:日本橋古書店街
出典:大阪春秋(イラスト:松葉健 氏)/
でんきのまち大阪日本橋物語
より

古書店街から電気街へ、
流行文化最先端の街“日本橋”

昭和12年に御堂筋が完成すると、大阪のメインストリートは堺筋から御堂筋に移ることとなりましたが、日本橋古書店街は衰えるどころか、さらなる賑わいを見せていました。

この中において、日本橋に電気街としての顔が見られるようになったのもこの頃と言われていますが、最も、当時の日本には庶民が使うような家電製品というものは殆ど存在せず、多くはラジオや蓄音機、それに使用するレコードなどを扱う店が軒を並べるようになったのが電気街の始まりとされています。

なぜ、古書店街にこのような店がというと、当時の日本橋古書店街の賑わいにおける幅広い集客力と、学生や文化人など流行文化に敏感な層が多く集まっていたからではないかと考えられています。

特にラジオや蓄音機が庶民に普及し始めると、日本橋にもこれらを扱う店が増え始め、小規模ながらラジオを製造する店もあったといわれています。

太平洋戦争の始まる直前の昭和15年前後にはラジオやラジオ部品を扱う店が7~8軒集まっており戦後に電気街として発展する日本橋の変化はこの頃に既に始まりつつあったといえるかもしれません。

写真:昭和初期の蓄音機
出典:サワダデンキ(澤田沢治 氏提供)/
でんきのまち大阪日本橋物語
より

戦後復興期に
ラジオで大きく成長する“日本橋”

戦前には古書店街として大いに賑わった日本橋は戦争により再び大きな転換期を迎えることとなりました。

特に昭和20年3月13日の大阪大空襲では日本橋一帯も焼け野原となり、わずかに松坂屋がその姿を残すのみとなり日本橋古書店街は壊滅的な被害を受けました。

しかしながら、空襲で焼け野原となった日本橋も戦後の復興は比較的早かったといわれ、戦前には大阪でも有数の商業地として大きな賑わいを見せていた日本橋だけに必然的に人やモノが集まってきたことは想像に難くはありませんでした。

終戦翌年の昭和21年には早くも店が建ち始め、食料品や日用品などの他に、戦前から取り扱いのあったラジオや無線機、真空管などの関連部品を扱う店が多く見られるようになりました。

ラジオや無線機、真空管などの関連部品を扱う店が多く見られるようになった背景には、戦後の混乱期で娯楽や情報の無い時代にラジオは大変な人気だったものの終戦直後の日本ではメーカー製造のラジオは殆ど流通しておらず、主に軍の放出品である関連部品を使ってラジオを組み立てて販売する人が数多く存在したことがあり、日本橋ではこの様な人たち向けにラジオの部品を販売するいわゆる「ラジオ屋」が大いに繁盛しました。

さらに「ラジオ屋」の繁盛を見て、これまで食料品や日用品などさまざまな業種の店が「ラジオ屋」に転業するにあたり日本橋は数多くの「ラジオ屋」が集まる一大電気街に発展することとなりました。

写真:上新電機ラジオデパート
出典:上新電機 浄弘博光50年の生涯 /
でんきのまち大阪日本橋物語
より

写真:昭和33年頃の日本橋の店舗
出典:大阪岡本無線電機50年史 /
でんきのまち大阪日本橋物語
より

高度経済成長と共に
ラジオから家電へ拡大する“日本橋”

いわゆるラジオ部品販売の「ラジオ屋」として隆盛を誇った日本橋も、戦後の高度経済成長にともない様相を少しずつ変えていくこととなります。

もっとも昭和20年代の日本橋にはラジオの関連部品を求める客が大半で、多くの店舗が卸売りの形態をとっており一般客は殆どいない状態でしたが、組み立てラジオにおける需要がメーカー生産のものに変わり、さらにトランジスタラジオの登場などで衰退、変わって昭和30年代の高度経済成長における家電ブームで多くの「ラジオ屋」が家電商品を扱うようになり、次第に一般客も多く訪れるようになりました。

特に三種の神器と称された白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の登場は国民生活を一変させ、これらの商品が安くて豊富に並ぶ日本橋には多くの客が訪れるようになり、一般消費者における電気の街「日本橋」としての地位を確立させるに至りました。

さらに、昭和40年代以降はカラーテレビやエアコン、オーディオの登場など、消費者の志向と共に電気街としての日本橋も都度発展し、この頃より日本橋における店舗の大型化も顕著となりました。

一方で、明治45年に開業した大阪市電堺筋線が昭和41年に廃止、さらに同年には庶民のデパートとして親しまれた松坂屋が天満橋に移転、翌昭和42年には地下鉄堺筋線が開業し、日本橋を取り巻く環境も変化を迎えることとなります。

写真:オーディオブーム全盛期の
日本橋商店街の賑わい
出典:でんきのまち大阪日本橋物語より

“でんでんタウン”から、
オタクの聖地“日本橋”へ

昭和40年代には電気街としてその確固たる地位を確立した日本橋は、昭和53年に“でんでんタウン”という愛称を採用し電気の街としてさらに広く親しまれるようになりました。

“でんでんタウン”の登場と同じ頃、世間ではウォークマンが一世を風靡し、さらに平成に入るとデジタル家電やパソコン、TVゲームなどが次々と登場、日本橋の市場環境も変化を見せ始めていました。

特に平成7年のウィンドウズ95の登場はパソコンブームの到来を予感させるのに充分なものとなり、日本橋の客層はより専門性の高いものとなりました。

一方で電気街としての日本橋はというと、価格競争が激しさを増し、家電量販店のさらなる大型化や郊外への出店加速、さらにネット通販の普及などで次第にその勢いを失うこととなりました。

しかしながら専門性の高いパソコンやマルチメディア関連の店舗は急成長し、これらに関連したゲームソフトやアニメ関連の店舗が数多く進出し始め、平成10年代には今のオタク街としての日本橋が形成されるようになりました。

平成期において、電気街からオタク街へ劇的な変化を遂げた日本橋ですが、ここ最近においては、海外でも人気の高い日本のアニメやゲームなどのオタクコンテンツを求める海外からの観光客が増加、世界的にも日本橋の認知度は高くなりつつあり、オタロードと呼ばれる西側のエリアなどは新たな賑わいを見せています。

また、平成17年(2005年)より商店街活性化を目途に開催されている日本橋ストリートフェスタは、約13万人の来場者と300名のコスプレ参加者でスタートしましたが、今では来場者25万人を数え全国から1万人を超えるコスプレ参加者が訪れる国内最大規模のコスプレイベントとして国内外で広く知られるようになっています。

写真:電気街華やかなりし頃の
“でんでんタウン”夕景
出典:でんきのまち大阪日本橋物語より

[左] 広告:“でんでんタウン”誕生を告知するセール広告
出典:でんきのまち大阪日本橋物語より
 
[上段] 写真:セールで賑わう“でんでんタウン”
出典:でんきのまち大阪日本橋物語より
[中段] 写真:第1回日本橋ストリートフェスタ2005の様子
[下段] 写真:第15回日本橋ストリートフェスタ2019の様子
[上] 広告:“でんでんタウン”誕生を告知する
セール広告
出典:でんきのまち大阪日本橋物語より

[上段] 写真:セールで賑わう“でんでんタウン”
出典:でんきのまち大阪日本橋物語より
[中段] 写真:第1回日本橋ストリートフェスタ
2005の様子
[下段] 写真:第15回日本橋ストリートフェスタ
2019の様子

 江戸時代から幕末、明治維新、大正デモクラシー、昭和モダン、そして戦争で全てを失い戦後いち早く復興、高度経済成長期からバブルの時代、そしてインターネット社会の現代と、常に時代の変化の中で先人たちの知恵と努力で発展し続けてきた日本橋商店街。
 そのスピリッツを受け継いだ人たちがこれからの日本橋商店街をどのように発展させていくのか、日本橋商店街の魅力はまさにそこにあるのではないでしょうか?

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